LOGIN仕事帰り、私は駅前で足を止めた。
昨日一人で入った定食屋。
その少し先にある不動産屋。
ガラス越しに明るい店内が見える。
営業時間はまだ終わっていなかった。
私はしばらく立ち止まっていた。
部屋を探す。
昨日までは、まだ考えているだけだった。
スマホで物件を保存して。
家賃を見て。
駅からの距離を見て。
でも、本当に動くところまではいかなかった。
悠斗は自分が出ると言った。
あの部屋に私が残ればいいと。
通勤にも便利。
家賃も一人で払えないわけではない。
家具も揃っている。
生活を大きく変えなくて済む。
たぶん、それが一番楽だった。
でも。
私はガラスに映る自分を見る。
あの部屋に残って、本当に自分の生活を始められるだろうか。
ソフ
その週の土曜日、私は花瓶を探しに出かけた。 朝から洗濯をして、部屋に掃除機をかけて、ミモザの水を替えた。 花は少し元気をなくしていたけれど、まだ黄色い小さな粒が窓辺に残っている。 透明なグラスに挿したそれを見ながら、私は佐伯さんの言葉を思い出した。 花瓶を買いな。 花瓶監査するから。 監査という言葉は少し物騒なのに、思い出すと笑ってしまう。 でも、佐伯さんの言う通りだと思った。 花を買ったのなら、それを置く場所を少し整えてもいい。 完璧な部屋を作るためではなく、今の生活に似合うものをひとつ増やすために。 私はスマホで近所の雑貨店を調べた。 駅の反対側に、小さな生活道具の店があるらしい。 口コミには、器とガラス小物が多いと書かれている。 私はバッグに財布とスマホと、小さなエコバッグを入れた。 誰かと待ち合わせているわけではない。 それでも、今日はちゃんと予定がある。 私の部屋に合う花瓶を探す日。◇◇◇◇ 駅の反対側へ歩くのは初めてだった。 いつもの書店や喫茶店とは違う方向。 細い道を抜けると、古いマンションの一階に小さな店があった。 木の看板に、控えめな文字で店名が書かれている。 中に入ると、陶器の皿やカップ、ガラスの小瓶、小さな布ものが並んでいた。 大きな店ではない。 でも、ひとつひとつの置き方が丁寧で、見るだけで少し楽しい。 私は棚の前に立ち、花瓶を探した。 丸いもの。 細長いもの。 透明なもの。 白い陶器のもの。 淡い緑色の小さな瓶。 どれも素敵で、逆に迷ってしまう。 前なら、無難なものを選んだかもしれない。 どんな部屋にも合うもの。 失敗しないもの。 誰かに変だと言われないもの。 でも今
月曜日の昼休み、私は佐伯さんにスマホの写真を見せた。 薄い青のカーテン。 窓辺のクラゲ。 グラスに挿したミモザ。 佐伯さんは画面を見て、しばらく黙った。「……いいじゃん」「本当ですか」「うん。いい」 いつもより少しだけ柔らかい声だった。「でも」「でも?」「花瓶を買いな」 予想通りの言葉に、私は笑ってしまった。「やっぱり言うと思いました」「グラスでも悪くないけど、せっかくなら花瓶があると楽しいよ」「花瓶って、どんなのがいいんでしょう」「知らない」「知らないんですか」「私も毎回適当に買ってる。でも、適当に買ったものが案外残る」 佐伯さんはアイスコーヒーを飲んだ。「高いやつじゃなくていい。小さいのでいいから、自分の部屋に合うのを探してみれば」 自分の部屋に合うもの。 その言葉だけで、少し胸が弾んだ。 カーテンを選んだ時。 テーブルと椅子を選んだ時。 料理本を選んだ時。 私は少しずつ、自分の部屋に置くものを選んできた。 そこに、花瓶が増える。 たったそれだけなのに、次の休日が少し楽しみになる。「佐伯さんは、花買いますか?」「たまにね。疲れてる時ほど買う」「疲れてる時ほど?」「そう。部屋が荒れてても、花だけあると、まあ人間の暮らしではあるなって思えるから」 佐伯さんらしい言い方に、私はまた笑った。「私、昨日それに近いこと思いました」「でしょ」「完璧な部屋になったから花を置くんじゃなくて、途中だから置いてもいいのかなって」 佐伯さんは満足そうに頷いた。「いいね。ちゃんと暮らしてる」◇◇◇◇ 昼食を食べながら、私は週末のことを少し話した。
翌朝、目が覚めて最初に見たのは、窓辺のミモザだった。 薄い青のカーテンの前で、黄色い小さな花が静かに揺れている。 昨日、花屋で買った一本。 グラスに挿しただけの簡単な花。 それでも、部屋の空気は少し違って見えた。 まだ段ボールは残っている。 本棚に入りきらない本もある。 洗濯物を畳む場所も、まだ決まったとは言えない。 でも、窓辺に花がある。 それだけで、未完成の部屋に小さな明かりが増えたようだった。 私は布団から起き上がり、カーテンを少し開ける。 朝の光が入って、ミモザの黄色がふわりと明るくなった。「おはよう」 小さく言ってから、少し笑う。 花に挨拶するなんて、前の私なら照れくさくてできなかったかもしれない。 でも、ここには私しかいない。 誰かに聞かれて笑われる心配もない。 そう思うと、少し気楽だった。◇◇◇◇ 朝食は、ヨーグルトとトースト。 グレーのマグカップには温かい紅茶。 丸いテーブルに座ると、窓辺のミモザが視界の端に入る。 それだけで、いつもの朝食が少しだけ丁寧なものに見えた。 写真を撮りたい。 そう思った。 スマホを手に取って、窓辺に向ける。 薄い青のカーテン。 クラゲのキーホルダー。 透明なグラスに挿したミモザ。 画面の中に、小さな私の部屋が収まった。 撮った写真を見る。 きれい、というより、好きだった。 私は少し迷ってから、森下さんに送った。『昨日、自分用に花を買いました』 すぐには返事が来ない。 日曜日の朝だから、まだ寝ているかもしれない。 私はスマホを置いて、トーストをかじった。 花を買ったことを、誰かに見せたいと思った。 そのことが、少し不思
花屋はまだ開いていた。 店先には小さな鉢植えと、切り花のバケツが並んでいる。 赤いガーベラ。 白いカーネーション。 黄色い小花。 名前の分からない淡い紫の花。 私は店の前で少し立ち止まった。 花を買うのは、久しぶりだった。 以前も買ったことはある。 でも、それは誰かの誕生日や、職場への差し入れや、部屋をきれいに見せるためのものだった気がする。 今日は違う。 自分の部屋に置くため。 まだ段ボールの残る部屋に。 薄い青のカーテンのそばに。 私が帰る場所に、ひとつ色を足すため。「ご自宅用ですか?」 店員さんに声をかけられ、私は少しだけ戸惑った。 ご自宅。 その言葉が、胸の中で静かに響いた。「はい。自宅用です」 そう答えると、思っていたより自然だった。「一輪だけでも大丈夫ですか?」「もちろんです。どんな雰囲気がいいですか?」 雰囲気。 私は店先の花を見た。 華やかすぎるものは、今の部屋には少し照れくさい。 でも、寂しすぎるものも違う。 目に留まったのは、淡い黄色の小さな花だった。 名前は分からない。 けれど、窓辺に置いたら部屋が少し明るくなりそうだった。「これを一本」「はい。ミモザですね。季節のものではないですけど、今日は少し入ってきていて」「ミモザ」 名前を口にすると、少し嬉しくなる。「小さな花瓶に入れますか?」「あ……花瓶はまだなくて」「グラスでも大丈夫ですよ。短めに切りましょうか」「お願いします」 花屋の店員さんは慣れた手つきで茎を整え、小さな紙に包んでくれた。 黄色い花が、紙の隙間から少しだけ見えている。 私はそれを受け取った。
書店を出たあと、私はまっすぐ帰らずに通りを歩いた。 紙袋の中には、買ったばかりのエッセイ。 店員さんから聞いた言葉が、まだ胸に残っている。 朝倉さんが、感想カードを喜んでいた。 写真を見た人の生活が入っている感想だと言っていた。 匿名だったのに。 それでも、その言葉は私の中へちゃんと届いた。 私は少しだけ顔が熱くなるのを感じながら、古い喫茶店の前で足を止めた。 前にも何度か通った店。 窓の中には、オレンジ色に近い灯り。 カウンター席に座る人。 奥のテーブルで本を読む人。 写真に写っていた店とは違う。 それでも、あの『帰り道の灯り』を思い出す場所だった。 入ってみたい。 今日は、その気持ちが前よりはっきりしていた。 誰かと一緒ではない。 一人で。 少し緊張する。 でも、一人で入ってみたい。 私はドアの前に立ち、深く息を吸ってから取っ手に手をかけた。 扉を開けると、小さなベルが鳴った。 店内にはコーヒーの香りが漂っている。 カウンターの奥にいた年配の女性が、こちらを見た。「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」 柔らかい声だった。 私は軽く会釈して、窓際の二人掛けの席に座った。 二人掛け。 けれど、今日は一人で使う。 前なら、少し申し訳ない気持ちになったかもしれない。 一人なのに二人席を使っていいのかな。 混んできたらどうしよう。 でも店内にはまだ余裕があった。 私はバッグを向かいの椅子に置いた。 空いた椅子に、自分の荷物を置く。 それだけのことが、少し自由に感じた。 メニューを開く。 ブレンドコーヒー。 紅茶。 チーズトースト。 プ
土曜日の午後、私は書店へ向かった。 スマホのカレンダーには『書店か喫茶店』とだけ入れてある。 約束ではない。 誰かに会う予定でもない。 だから、行かなくても誰にも迷惑はかからない。 それでも朝から少しだけ楽しみだった。 洗濯物を干して、部屋に掃除機をかけて、残っていた段ボールをひとつ潰した。 そのたびに、今日の午後は書店に行くのだと思った。 誰かのための買い物ではない。 必要な手続きでもない。 私が私のために出かける予定。 その軽さが、まだ少し新鮮だった。◇◇◇◇ 書店の入口横の掲示板には、新しいチラシが増えていた。 手作り市の案内。 児童書フェア。 地域の読書会。 そして、前に見た『次回展示準備中』の紙はまだ貼られている。 朝倉さんの名前はない。 少しだけ残念だと思った。 でも、その残念さをすぐに消さなくてもいい気がした。 また会えるかもしれないと思っていた。 会えなくて、少し寂しい。 それだけのことだ。 私は掲示板の前で小さく頷いてから、店内に入った。 本棚の間は静かだった。 土曜の午後だからか、平日の夕方より客が多い。 親子連れ。 年配の女性。 文庫棚の前でじっと背表紙を見ている男性。 それぞれが、それぞれの本を探している。 私は料理本の棚を少し見てから、暮らしのエッセイの棚へ移動した。 一人暮らし。 小さな部屋。 毎日の食卓。 そういう言葉が表紙に並んでいる。 少し前の私なら、そんな本を手に取ることすらなかったかもしれない。 今の生活に必要だからではなく、今の生活を少し好きになりたいから読む。 そういう選び方があるのだと、最近になって知った。
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少







